一般の部

優秀賞

行ってらっしゃい!
東京都渋谷区 田中 順子たなか じゅんこ(56)

 「最近の家電は随分便利なのね」。店員の説明に感心している私の横で、息子はうんざりした顔をしている。「どれにする?」と聞くと、「これでいい」と即答。これから自分で使うのだから、もっと真剣に選べばいいのに。就職が決まった息子は、一人暮らしをすることになった。180センチ近い息子を横目で見ながら、一緒に買い物をするのは久しぶりだなとくすぐったい気持ちになる。一通りの買い物を済ませると、息子は友達との約束の場所に出かけて行った。
 一人で家に帰った私は、現実と向き合う。息子の赴任地が決まってから、ずっと心がザワザワしていた。認めたくないけれど、「から症候群」かもしれない。一人息子が旅立つと、本当に空の巣になる。
 「一人で生きていける力をつけさせるのが子育て」が、私の持論だった。それなのに自分の気持ちが情けない。
 何か大切なことを伝えていないような気がして落ち着かない。買い物や引っ越しの準備で慌ただしく、息子も友達とのお別れ会で忙しい。ゆっくり話す時間が欲しい。でも一体何を話そうというのだろうか。夫が「寂しいな」と言うたびに、「家にいたら独り立ちできないからね」とげきを飛ばしているが、それは自分に言っている。  とうとう出発の前日になった。引っ越し荷物を送り出し、夕食の支度まで少し時間がある。私は手紙を書くことにした。
 「今までありがとう」。書き出しの言葉。そう、ずっと息子の存在に感謝してきた。
 出産のとき、私は初めて自分の命より尊い存在があることを知った。へその緒が足に絡まって出てこられない息子。「私の命と引き換えでもいいですから、この子の命を助けてください」、私は神様に必死で祈った。お陰様で、二人とも無事に生かしていただいた。友達を作ろうと公園に連れて行っても、私のそばから離れない甘えん坊。幼稚園の送迎バスに乗る時も、毎朝大泣きをした。少年野球の合宿では、こっそり泣きながら電話してきた。
 「独り立ちさせなきゃ」と心配してきたのに、中学生の試験休み、「ディズニーランドに友達と行く」と言われたときは寂しかった。それまでは「ディズニーランドに行こうよ」だったのに。子育ての大変さを言いながら、いつも楽しませてもらっていたのは親の方だった。
 突然やってきた子離れ。息子のほうがさっさと親離れしていた。
 子育ては、自分の子供時代のおさらいのよう。遠足のお弁当を作っているときに気が付いた。それは母が作ってくれたものとそっくり。甘くてふんわりした卵焼き。のり、きゅうり、チーズのちくわ巻き。タコのウインナー。私の大好きだったお弁当。私は三人兄弟の真ん中だったので、「お兄ちゃんの言うことを聞きなさい」「弟の面倒を見なさい」と言われ、いつも損をしている気分だった。学校行事も母が3人のところを走り回って、三分の一しかそばにいてくれない。寂しかった。でも、自分が親になってわかった。母も必死で走り回っていたのだ。今更いまさらながらありがとう。
 息子が小4の時、犬が欲しいと言ったので飼うことにした。実家にも犬がいた。何か嫌なことがあっても、犬に話しかけているといやされた。きっといい弟になってくれるだろう。その犬ももう13歳。旅立つ息子の一番の気掛かりはこの子だ。
 手紙を書いていて思い出した。私は27歳の時、5年勤めた会社を辞めてアメリカに留学をした。その時、一人の寂しさから親への感謝の手紙をしたためた。それまでは当たり前だと思っていた親の愛に、せつないほどの感謝を感じて。アメリカという場所のせいか、照れることなく両親への愛情や感謝の気持ちを素直につづった。「あなたたちの娘であることを誇りに思います。本当にありがとう」と。両親はとても喜んでくれて、恐ろしいことに、知り合いにその手紙を見せて歩いた。帰国後、「あなたの手紙に感激しました」と言われるたびに、赤面した。アメリカに旅立つ前、母が「なんだか気持ちがザワザワする」と言っていた。
 どれほど心配だったことだろう。それでも一生懸命応援してくれた。留学に反対する父を説得してくれたのも母だった。
 息子への手紙の最後に、「いつでも、どんな時でも応援しています。ずっとあなたの味方です」と書いた。ザワザワはいつの間にか消えていた。明日の朝、渡してあげよう。これで、笑顔で送り出してあげられる。「独り立ち」を心から祝福して。
 夕食の後、息子が改まって「今までありがとう」と言ってくれた。ドキン。心臓の音と同時に視界がかすむ。夫の顔を見ると、泣き顔がゆがんでいる。その顔がどんどんぼやけていく。こっちこそありがとうだよ。言葉にならない。
 旅立ちの朝、息子は「行ってきます」と玄関を出た。この言葉は、お別れじゃないからねという私たちへの思いやり。窓から見送っていると、振り向いてさわやかに手を振って歩いて行った。「行ってらっしゃい、頑張って!」。遠ざかる背中に、思い切り手を振った

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