一般の部

佳作

「ときめく言葉」
長崎県長崎市 立木 英夫たちき ひでお(68)

 私は午前だけの勤務で算数を教えている再任用の教師である。
 さあ、今日もチャチャッと教えて、午後のランチはどこへ行こうかと考えていた時だ。
 初めて算数という学習にふれ興味津々の一年生の子供たちの中で、一人不安な表情をしている女の子がいた。何かわからないことがあるのだろうか。私はそれとなく女の子に近づき、笑顔で「おはよう」と声をかけた。
 女の子から返事はなかった。女の子は緊張した顔で私を見つめた。
 急に声をかけたので、女の子は怖かったのかもしれない。私は一応教師であるけども、授業をしている担任とは違い、教室の後ろの方でうろうろしている、どう見ても不審なおじさんだ。
 私は次に用意していた言葉が見つからず、なぜか「ごめんね」と小さく言ってあわててその場を離れてしまった。
 次の日、廊下の姿見で自分の姿を見て、やっぱりおじさんの笑顔は気持ち悪いと思いながら教室に入る。子供たちの間を支援しながら女の子に近づいた。さっと女の子のノートを確認する。よかった。よくわかっている。そう安心して離れようとした時だった。
「先生、その子しゃべらんよ」
 後ろの席の男の子がぞんざいに言った。
 授業が終わって担任にを事情をく。
「ハルカちゃんは場面緘黙かんもくなんです」
 と担任は言った。家庭では普通にしゃべるのに、学校では一言も喋らない。幼稚園の時からそうだったらしい。学級ではハルカちゃんが喋らないことで本人が負担にならないようにいろいろと配慮していると言った。
 私は何も知らないでハルカちゃんに軽々しく話しかけてしまった。ハルカちゃんは私に返事しようとして苦しんだかもしれない。私は今まで子供とは適度な距離をとって教えてきた。教えることとその子の人生に関わることは別のことだと考えてきた。しかし、喋れないハルカちゃんの孤独の世界を考えると、私はどうしても会話してみたいと思った。
 でも、戦力外の私ではどうすることもできない。近寄ることさえできない。遠くからハルカちゃんのことを見るだけの日々が続いた。
 七月のある日のことだった。昼休みに廊下を歩いていると、一年生の教室でハルカちゃんが一人でお絵かきをしてるのを見かけた。私は絵が好きで、絵をかくのが得意だ。私はいつの間にかハルカちゃんのお絵かきノートに乱入していた。ハルカちゃんはおびえることなく私が絵をかくのを許してくれた。
「うわあ、先生、上手!」
 教室の女の子たちが集まってきた。
 私はおじさんのキャラの「おじさんまん」をかいた。私のアバターだ。
「なに、これ?」
 女の子たちが笑った。
「ぼくはせいぎのひーろうだよ。あたまのはげたところからこうせんをだすよ、びーっ」
 自虐じぎゃくネタだ。女の子たちが声を出して笑った。ハルカちゃんも笑った。
 おじさんまんの隣に女の子の絵をかいた。その絵の下に「ハルカちゃん」と書いた。その絵に吹き出しを付けた。
 おじさんまんはハルカちゃんに尋ねる。
「さんすうはすきですか」
 女の子たちは不思議そうに見ていたが、やがて私のたくらみに気づいたようだ。
「ハルカちゃん、返事を書いて」
 女の子たちが口々に言った。ハルカちゃんはためらいながら、「すき」と書いた。
 おじさんまんは次々に質問する。
「すきなくだものはなんですか」
「めろん」
「いちばんすきなひとは?」
「おかあさん」
「おじさんまんは?」
「すき」
 女の子たちがヒューヒューと言った。
 大人げないと反省している。でも、ハルカちゃんと言葉を交わすことができた。もちろん、それはお絵かきノートでのことだが。担任からは、勝手なことをしないで下さいと抗議をされた。私はすみませんと言った。
 この前、とてもうれしいことがあった。廊下でハルカちゃんとすれ違った時、私が何気なくしたハイタッチにハルカちゃんが笑顔で応じてくれたのだ。これで十分だ。人と人とがふれあうのに言葉などいらない。
 それから、もう一つ嬉しいことがあった。教室でハルカちゃんの席に行った時、ハルカちゃんが私の耳元で何か言った。かすかに聞きとれるくらいの声だったが、「おはよう」と確かに聞こえた。初めて聞くハルカちゃんの言葉に私はときめく。
 今年で私は完全に教師を辞めて年金生活に入る。でも、私はときめいている。人を幸せにする言葉はこんなに世界にあふれているとハルカちゃんが教えてくれたからだ。

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