一般の部

優秀賞

「お母さん」
神奈川県横浜市 鈴木すずき 郁子いくこ(59)

 私が結婚したのは、一九九三年のことだから、かれこれ三十三年も前のことになる。結婚式の前夜、母は私を二階の部屋へ呼んだ。
 あらたまって正座して向き合うと、母は長く黒光りする物をすっとこちらへ差し出した。そろばんだった。さらに一枚の白黒の写真をその横にそっと置いた。そしてこう言った。
「これ、今日からは貴女あなたが持っていなさい。貴女のお母さんが大事に使っていたものよ」
 私を産んだ母は、私が三つのときに亡くなった。私と、三つ下の赤ん坊だった弟をのこして。家族四人で母の実家に帰っていた朝、幸せであるはずの朝の、信じられない突然の出来事だったそうだ。幼子二人を抱え、悲しみに暮れる父は、「子どもたちのためには早いほうがいい」との周囲からの強い勧めもあって、再婚をした。
 私たちの家に、新しい「お母さんになろうとする人」がやってきたのは、産みの母が亡くなって七ヶ月目のことである。
 その人は「無理にお母さんって呼ばなくていいのよ」などと私に言った。私はおませな四歳児になっていたから、幼いながらも心の中で「そりゃそうだ、お母さんじゃないもの」などと思い、思うだけでなく、言葉にして幼いなりの、精一杯の悪態あくたいをついた。その人が食事の支度をしようとすれば「私のお母さんの食器棚に触るな。あっちへ行け」。泣く弟をあやそうと出ないおっぱいを飲ませようとすれば「ひろくん(弟の名)泣き止まないじゃん」。そのたびにその「お母さんになろうとする人」はとても悲しそうな顔をした。でもその人を認めることはできなかった。
 そんな幼少期だったから、いわゆる多感な思春期、私とその人との関係がよくなるわけがなかった。その人はどんなときも一生懸命だった。一生懸命に自分の役目を果たそうとした。厳しく、あたたかくまっすぐに育てた。それはとてもわかるのに、頭では理解できてもその存在を素直に認めるわけにはいかなかった。その人が頑張って向き合おうとすればするほど、うるさくて鬱陶うっとうしくて、私はいらいらした。「死ね、くそばばあ」。中高時代、何度この言葉を吐きつけただろう。大学生になって少し大人になった私は感情的にぶつかる場面は減ったものの、その人との関係が大きく改善されるよしもなかった。
 差し出されたそろばんは、その人が、「その日が来たら、私に手渡す」と決めて誰にも言わずに大事に取っておいてくれたものだった。白黒の一枚の写真。小さな私を抱き、いとおしそうにほおずりしている産みの母が写っていた。私にそっくりな人だった。私はそれらを手元に引き寄せ、ただ何も言わずにしばらく黙っていた。その人は続けてこう言った。
「私ね、貴女が二十七歳でお嫁にいくこと、とてもよいことだと思うわ。貴女のお母さんが生きられなかった『これから』を貴女が生きていくんだから。絶対に幸せになれる」
 産みの母は二十七歳という若さで亡くなったのだった。
 私が結婚してやがて二人の娘が産まれ、その人の力を大きく借りることとなった。共働きの私たちは昼間娘たちを「おばあちゃん」にみてもらうことで毎日が成り立つようになった。祖父母に愛情いっぱいに育まれた娘たちはすくすくと成長していった。冗談交じりに母が誇らしげにこう言った。「私、究極のボランティアよね。血のつながらない子どもたちを、二代にわたって立派に育てあげたんだから!」
 家族皆で顔を見合わせ、「自分でそれ、言う?」と大笑いした。
 その人。お母さんになろうとした人。私にとってのかけがえのない母。いつしか本当の「母」になっていた。その母が亡くなって十年が過ぎた。
 母の人生を思う。決めたのだ。何があってもとついだ家で、出会った子どもたちに愛を注ごうと。「お母さん」になろうと。それが「今すぐ」でなくても。長い時間をかけて。ぶれることなく、自分の使命を全うしたのだ。
 自分がお腹を痛めた子であっても、育てることは難しい。自分が親になってしみじみわかることがある。理屈ではない。血ではないのだ。
「貴女がいじわるばかり言うから、私は何度実家に帰ろうと思ったかしれないわ」。そんなことも晩年笑って言っていた母。ごめんなさい。そして、ありがとう。
 迷いも悲しいことも、つらいこともあっただろう、たくさん。でも母は決めたのだ。私たちを育てあげると。決めたことをやり遂げたのだ。母の決意の成果が今ここにある。母の言葉の通り、幸せな人生を力強く歩む私がいる。

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