一般の部

佳作

最後の学校長式辞
神田かんだ ゆう

 「学校長式辞」
 司会者の発声で、私は壇上へと上がる。
 演台の前で一礼し、体育館内を見渡した。首筋に汗を感じる。いつもはそんなに緊張なんてしないが、この日ばかりは違っていた。
 おもむろにじゃばら状の用紙を開ける。この学校の最後の学校長式辞なのだ。胸の奥から熱い物が込み上げてくる。本当は知られたくない過去であった。これまで逡巡しゅんじゅん葛藤かっとうあり躊躇ちゅうちょもあって。だから私は恩師、A先生に相談することにした。そして決意が新たになったのだ。よし。自分を鼓舞こぶする。
『式辞。春の息吹が感じられる良き日、ご来賓らいひんの皆様、保護者の方々のご臨席のもと……』
 心臓の鼓動こどうが速くなっていく。もう引き返すことはできない。
『さて、卒業をするきみたちにこれからの人生の参考として私自身のことをお話ししたいと思います』
 息を大きく吸った。さあ、子どもたちに語っていこう、僕自身を。
『私が教師になったのには、他人には言いたくない過去があります。どういうことか。私が小学生だった頃のことからお話ししなければなりません』
 クラスメイトたちは休み時間になると外に飛び出していった。僕は図書室に行き、一人で本を読んでいた。なにも本が好きだからではない。読書好きの人間を演じていたのだ。孤独感を感じたのは中学生からである。周りは群れているのに僕だけはいつも机でじっと座っているだけだった。僕の居場所はどこにもなかった。唯一の楽しみは、帰宅する途中にある古本屋に寄ることであった。部活にも入らずいわゆる帰宅部。そこは僕の心を癒やしてくれた。クラスであったつらいこと、嫌なことをその時間だけは忘れさせてくれた。
 ごちゃごちゃに入れてある本棚を決まった順路で歩いていく。ったばかりの芝生のような、古い押入を久しぶりに開けたときのかび臭さと揮発性きはつせい化合物が放出するようなあの匂い。本の世界は現実逃避であったが、しだいにその魅力にかれていった。道端の草も空高くただよう雲も目には見えない空気も何もかもが面白く、普通なら気に留めないものでもなんてすごいんだと思ってしまう。しかし心は満たされることはなかった。
 高校生で部活に初めて入った。それは読書部。新米のA先生が赴任したときに作ったのだ。しかし、部員が少なくすぐ廃部になった。運命なのか、担任がA先生になった。
『夏休み、A先生に呼ばれました。周りの人たちは志望校を決めているのに、自分だけ決まっていなかったのです。進路はどうするのかねとかれても、答えることができませんでした。未来を考えることが怖かったのです。僕なんか社会に順応できないのに決まってる。じっと黙っている僕に先生はこう言いました。まるで自分を見ているようだ、と』
 A先生も僕と同じだった。友達ができず、本の世界に逃げていた。クラスという集団からのけ者にされ、暴力も受けていた。いまでいういじめ。だれも助けてはくれず、親は「男ならやられたらやりかえせ」と突き放した。僕たちは耐えるしかなかったのだ。
『教師になってみないか。それは私にとって意外な言葉でした。私にはトラウマがあったのです。教室という狭くて逃げ場のない空間。クラスメイトからはじかれる場所にとどまるなんて想像しただけでぞっとします。それにこんなだめ人間、どう考えても教師には向いてない。そんな心の内を吐き出すと先生はこうおっしゃいました。疎外そがいされる思いをした教師はそういるとは思えない。自分たちみたいな子供を助けていかないか』
 子供を助ける。その台詞で目覚め、決心した。自分しかできないことがあるのだと。
 A先生とは教師になってからも交流があり、時々会っては学校や子どもたちのこと、そして教育について談義してきた。
 式辞のことを相談に行った。先生はせさらばえていた。「いいんじゃないか」。即答はしたがしばらく黙考したあと、「もしかして僕も式辞に登場するのかね?」「もちろんです。でなければ意味がありませんから」「それは……」と言ったあと、「しかたないか」と小さく微笑んだ。病室を出た。
 どうぞこれが子どもたちの心のり所になりますように……。そんな願いで読んでいった。
『卒業生の皆さんのえある卒業を祝福し、光あふれる前途を心より祈念いたしまして、式辞と致します』
 終わった……。息を付く。
 一人の保護者が校長室に訪れた。「校長先生。感動しました。私もずっと独りぼっちでした。あの頃を思い出して……。先生に担任してもらいたかったです」と涙を流された。
 この式辞にしてよかった。本当によかった。
 数年後、がんの余命宣告を受けていた恩師は亡くなった。今年の命日もA先生の墓石の前で手を合わせる。青く澄んだ空を赤とんぼの群れが飛んでいる。その一頭が墓の上に止まった。それがなぜだか恩師に見えた。

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