一般の部

佳作

ライオンのロマン
大阪府枚方市 松本まつもと たけし(67)

 故忌野清志郎いまわのきよしろうさんの「僕の好きな先生」という曲がある。「職員室が嫌いな美術の先生が自分に素敵な話をしてくれた」という思い出の歌だ。
 私にも同じ思い出がある。五十年近く前の私が高校時代の話だが、「ライオン」という愛称の美術の先生がいた。当時その先生は五十歳位だった。職員室が嫌いだったかどうか知らないが、大概は美術の準備室にいた。くせ毛の髪は伸び放題。まるでライオンのたてがみのようだ。これが「ライオン」という愛称のわれだ。
 いつも酒焼けをした赤ら顔とタバコと酒の匂い。服と言えばいつから着ているものか同じ作業着を何日も着ている。しかも、その作業着には大量の絵の具が付いている。足にはサンダル。そんな姿で準備室に座っているか、美術室で絵を描いているか、廊下をふらふらと歩いている。「ライオン」の姿はそんな光景と共に思い出す。美術の授業を受けていたが、私の描いた絵に「人間の口ってそんな小さいか、もう一回鏡を見てみい」と言われたことくらいしか思い出せない。
 しかし、担任でもなく、美術部にも所属していなかった私にとって「ライオン」は大きな存在だった。
 「ライオン」とのつき合いは高校を卒業してからも続く。私の結婚式にも招いたし、「ライオン」の葬儀にも出席した。今にして思えば本当に不思議だ。仕事で行き詰まった時、結婚した時、その他、何かきっかけを作ってはライオンの家を訪ねた。
 「ライオン」は学校を退職してからは山の中腹に京都の街が一望できるアトリエを作り、そこで絵を描いていた。絵に見とれていると「持って帰ってええぞ」と言われ、いくつか私の家に「ライオン」の作品がある。日本画が専門であったということは知っていたが、在職中は水彩画ばかりを描いていた。一度「なぜ在職中は日本画を描かなかったのか」と聞いたことがあるが、「お前らの面倒をみていたら日本画なんて描いてるひまがなかった」と言ったことがあった。いつもふらふらしているようだったが、しっかりと僕たちのことを考えていてくれたらしい。
 しかし、「ライオン」と何故こんなに深く関わることになったのか。それはあの一言だ。
 ある日、私はライオンに呼ばれて例の準備室にいた。「ライオン」はいきなり私に「お前のロマンはなんや」と聞いたことがあった。私はロマンと言う意味が分からずに、当時は運動部に所属していたことから「インターハイで優勝して、日本選手権で優勝して、オリンピックに出て……」などと勝手なことばかりを言っていたことを覚えている。「ライオン」は言葉をさえぎることなく最後まで聞いて「お前の言っていることは野心や、俺はお前のロマンがなんやと聞いている」と言った。
 私は言葉に詰まった。しかしこの時から「ライオン」と私の本当の付き合いが始まったとともに、自分の生き方も変わった。
「野心」と「ロマン」は違うと言うことを知り、「ロマン」とは何かという答えを求め続けた。
 社会人になって仕事に行き詰まると、「ライオン」のもとを訪れることが多かった。
 ある日、私は高校時代に「野心とロマンが違う」と言ったことを覚えているかと聞いたことがあった。「ライオン」は覚えていないと言った。しかし、それでもかまわない。私の出した答えは「野心は自分のことだけの夢、ロマンは周りの人たちを幸せにする夢」だった。その答えを「ライオン」にぶっつけたが、「ライオン」は何も言わなかった。それもかまわない。
 以来、私はそれを何かに迷ったときの判断基準にして生きてきた。仕事でもプライベートでも。何かを決心するときは、これは「野心」か「ロマン」かと考える習慣がいつしか身についた。そうして「ロマン」を取るようにしてきた。そのことで損をすることが幾度もあったが、そのことに後悔はしていない。「ライオン」は私の答えを否定しなかった。それでいい。
 会社員だった私は、ある日電車の窓から「ライオン」と過ごした学校を見た。いきなり「ライオン」の「お前のロマンはなんや」という声が聞こえてきた。私は教員になることを決心した。校内暴力の吹き荒れていた時代のことだった。
 利害を考えずに本当に自分が正しいと思うことが出来る道を選んだのだ。ふらふらしながらも私は今春、なんとか学校を退職する日を迎えることができた。
 今の時代に酒の匂いをぷんぷんさせて汚い風貌ふうぼうで校内を歩き回る教師は学校という社会では生きづらかろう。残念なことだ。しかし、本当に大事なことを教えてくれる先生が生きづらくなるような社会にはなってほしくない。それだけは決して。いつまでも「ライオン」のいることが許される社会であって欲しいと願うばかりだ。

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