中学生の部

大賞

延長線上の私
学校法人市川学園 市川中学校 1年 宮下みやした 英美理えみり

 「英美理、知ることはとても大切だよ」
 飽きるほど聞いた両親の口癖くちぐせだ。けれど、終戦から八十年のこの夏、両親の口癖は正しくて、私にはまだまだ知るべきことがあると分かった。
 八月十六日、福岡の祖母の家に帰省中きせいちゅう、私は両親に誘われて鹿児島の南九州市知覧町みなみきゅうしゅうしちらんちょうに来ていた。祖母の家から知覧町までは遠い。なぜ、両親は私を知覧町に連れてきたのか。
 知覧町は、八十年前の太平洋戦争下、多くの特攻隊員が沖縄の敵機に向かって飛び立っていた町。特攻とは、隊員自ら爆弾を積んだ航空機で敵に体当たりする攻撃だ。両親は特攻について知ってもらいたいという思いで、連れてきたのだろう。でも、私は特攻のことなんてそんなのはスマホですぐに知ることができるし、わざわざ知覧町まで行く必要があるのかな、スマホで調べれば充分とさえ思っていた。
 だが、知覧の地を踏んだ瞬間にそんな考えは吹き飛んだ。長く続く道のそばにはたくさんの慰霊いれい石灯篭いしどうろう。そして、その先にある戦闘機の姿。何よりも驚いたのは、その空気だった。静かで落ち着いている空気。どこか神聖さを感じた。少し歩くだけでも目に入るたくさんの碑や石像。観音堂や三角兵舎さんかくへいしゃ。それらを眺めながら、足に力を込め、目的地である知覧特攻平和会館に向かった。
 知覧特攻平和会館には、たくさんの特攻隊員の遺品や遺書があった。遺影は知覧から飛んで行った特攻隊員のものが出来る限りそろえてあった。遺影の下には名前と出身地、年齢や所属部隊が書いてあり、年齢は最年少が十七歳。隊員は全国各地から集まっており、朝鮮から来た人達もいた。遺書は家族あてのものや婚約者宛のもの、友人宛のものがほとんどだった。
 隊員達は遺書の中で、相手の体調を気遣きづかう文や相手への愛情をとても美しい文字でつづっていた。ただひたすらに、愛する人を想っていたのだ。愛する人が生きる未来のため、愛した故郷のために戦っていたのだ。そこには、スマホから出てくる文字とはまるで重みが違う。私は、心臓に岩を落とされた様な重みを感じた。涙は流れない。かわいそうという感情こそ失礼だと感じた。ただ、
「ありがとうございます」
 その一言が口から滑り落ちていた。
 特攻隊員は愛する人が生きる平和な世界のために飛んで行った。私は、彼らの想いの延長線上で生きている。だから、この事実に対する感謝は絶対に忘れてはならない。でも、それだけでは足りない。今この瞬間も世界のどこかで必ず争いが起こっている。私達が特攻隊の遺志を引き継いで、世界を平和にしなければならないのだ。もう二度と特攻機が飛ばない様に。もう二度と学生の未来が奪われない様に。もう二度と幸せを壊されない様に。そのために過去を知って、今に活かして、未来に進む。それが私達のすべきこと、しなければならないことなのだ。
 今日も私は延長線上の平和を生きている。

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