
十一時二分 私の祷り 長崎忌
これは被爆者である、私の曾祖母が詠んだ俳句です。
私はこれまで、曾祖母に戦争や原爆について聞いたことがありませんでした。聞くことで曾祖母を傷つけてしまうのではないかと不安だったから。また、戦争の辛さを受け止める勇気がなかったから。
しかし、日本が終戦から80年を迎えた今年、曾祖母から話を聞き、学びたいという気持ちが強まり、「ゆいちゃんが聞いたらひいおばあちゃんは喜ぶよ」という両親の言葉に背中を押され、話を聞こうと決心しました。
曾祖母は戦時中、学徒動員で長崎市内の工場で働いていました。
空襲の度、その頃はまだ二本の足があった一本柱鳥居の奥にある防空壕へ逃げたそうです。また、避難の途中に戦闘機が低空してきた時は、クスの木にへばりつき必死に先生達と隠れたそうです。
その日の朝は不思議な程ものすごい青空で、セミが沢山鳴いていたといいます。
「今日くらいは空襲が起きなければいい」
しかし、空襲警報で曾祖母達は防空壕に避難しました。防空壕の中で曾祖母はひどい腹痛に襲われ、先生は警報解除後に、曾祖母を家に帰しました。
帰り道の途中、千馬町の停留場で、頭痛で休んでいて昼からの出勤となった隣の家のお姉さんとすれ違いました。
「今からいくと?」
「お義母さんがうるさくて……今から行くとよ。具合は悪いけど」
爆撃機はアメリカの飛行機B−29でした。
カラン! カラン! 金属音とともに警報が鳴り響く。
「敵襲来! 敵襲来!」
パアアアアア。目に見える所、世界がオレンジに染まった。
遅れて、バアアアア! と爆風が襲った。
夜、逃げた山の上から見える景色は長崎駅、浦上方面が赤々と、ずっと、残酷に、燃えていた。
八月九日の朝、長崎は青空に包まれていたのに。
隣の家のお姉さんを皆で探しに行った時、途中、腕がなかったり、皮膚がとけていたり……沢山の人が曾祖母達に、「水……」と頼んだそうです。しかし当時、水をあげるとその場で死んでしまうと言われており、曾祖母達は水をあげることができなかったのです。
火葬の何とも言い表せないようなにおいは、今でも曾祖母の鼻に残っています。
大人になった曾祖母は、平和記念公園の近くに移り住み毎年、十一時二分に庭で水をまき、亡くなった人々に捧げていました。
名水を飲む はばかりよ 原爆忌
曾祖母は今年95歳になります。彼女は自分だけが生き残ってしまい申し訳ない、あのとき水をあげていればよかった、そんな色々な想いを抱えながら生きてきました。
私は話を聞いた後すぐに言葉がでてきませんでしたが、聞いてよかったとも思います。一つの勇気は新たな決心や勇気をもたせ成長させてくれます。
沢山の命を奪い生き残った人をも苦しめる戦争は絶対にいけない。
だから、私がこの話を繋いでいこう。